多数決
先日、掲示板でまた「学校を休んで旅行に行くことの是非」が話題になった。このテーマはこれまでも当掲示板において幾度となく話題になり、そのたびに賛否両論、議論紛糾の様相(ってほどでもないか^^)を呈してきたもので、まず反対派の問題提起から入るところも、いつもの通りである。まあ、管理人のわたしとしては、このような議論が沸き起こることを一概に是とも非とも思わず、あまりに加熱しすぎて掲示板の雰囲気が悪くなることを一方で警戒しつつ、他方ではさまざまな体験や意見を読むのを楽しんでもいる。わたしが思うに、この問題に普遍的な正解はなく、それぞれの家庭でそれぞれに考えて結論を出せばよいことで、その点に関して言えば、たとえば渡航先をどこにすればよいかという問題と基本的に同じである。アジアが好きな人はアジアに、ハワイが好きな人はハワイに行けばいいのであって、アジアとハワイ、どちらが正解ということもない。当サイトでは、ハワイ好きな人が、ハワイの良さを熱く語り、アジア方面の好きな人がアジアについて熱く語るのをほほえましいと思いこそすれ、疎ましく感じることはないので、この問題についても同様に、なるべく口を多くは挟まず、少し距離を置いて成り行きを観戦するというか見守るのが、わたしの基本的なスタンスである。
ただ、ハワイ好きな人が、「みんなアジアに行くのなんかやめなさい」というがごとく、「何人も学校を休ませるべきではない」的な意見がときどきあり、一体これはどうしたことだろうと思わなくもない。そして、最近はそのからくりもおおよそ分かってきた。
わたしが思うに、この問題の発端は、多数決にあるのだと思う。当サイトには学校を休ませることについてというアンケートがあり、ごく大雑把な分け方に置いて、学校より旅行を優先させる考え方のほうが常に優位を占めている。それは管理人個人の考え方やサイトの特性を多分に色濃く反映してこそ出た結果なのであり、このアンケート結果がそのまま世間一般の傾向と一致しているとは思わない。実際、我が家の周囲を見ても、学期中に子供を旅行に連れ出す家庭は少数派である。
けれども数値というのはなにやら絶大なインパクトを与えるもののようで、時としてアンケートの母体がどこにあるかなど、きれいさっぱり忘れさせてしまうらしい。アンケートの数値が、そのアンケートにおいて少数派となった人々に、必要以上に危機感を感じさせているのでは、と感じる次第である。
そもそも日本人は――いや、おそらく日本人に限らず、人間全般に共通したことだと思うが、多数決には非常に敏感である。意識するしないとにかかわらず、自分が少数派に属しているか、多数派に属しているかを常に気にしている。わたしなんぞは傍からみると、そういうことを気にするタイプではなく、going my wayを貫いているように見えるらしいが、実は相当気にしている。できることなら少数派であるより多数派でありたい。なぜなら、そのほうが絶対、生きやすいからだ。
だから、自分の経験をもってしても、アンケートの数値に危機感を抱き、同じ考え方の士を募り、アンケート結果を覆したい気持ちは良く分かる。中には「こんなのは世間一般の傾向ではないんだよ」と教えてくれる人もいて、わざわざそう知らせたい気持ちも良く分かる。
でも、ここであえて言わせていただく。アンケートの数値は敢えて無視していただきたい、と。もし無視しづらいなら、「こんなのは世間一般の傾向ではない」と大きな声で口に出して言ってみるとよい。口に出すと、頭の中で思っているだけでは信じられなかったことが、不思議と信じられるようになる。試してみてほしい。
わたしがあのアンケートを作った第一の目的は、なるべくバラエティ豊かな考え方を一堂に集めたいからであり、アンケートの価値は、1にも2にも、コメントにあると思っている。設問を二つに絞ったのは、立場を簡略化し、分かりやすくするためで、そのほうがコメントをつける際も書きやすく、コメントを読む側にとっても読みやすいと思ったからだ。あのアンケートは、多数決により勝敗を決するのが目的ではないのだ。
ウェブの世界というのは面白いもので、多数派意見よりも少数派意見が目立つ傾向にある。多数派は多数派であるがゆえに安心しきってわざわざ口を開かないが、少数派は声高に主張するからである。新聞社のアンケートでさえそうだ。ウェブ上の任意アンケートと無作為抽出による電話アンケートでは結果に相当な開きがあることも珍しくない。多数決の結果に自分の価値判断が惑わされることはもとより、そもそもその多数決の結果がどこまで信用できるかも分からないのが、ウェブ上であり、ひいてはこの世の中なのだ。
わたしが海外旅行に都度都度出かけて学んだ一番大きなものも、その多数決の結果のあやふやさである。同じ地球上でありながら、地域によっていかに常識、つまり多数派の考え方が異なるか、自分の身の回りの狭い範囲だけ見て自分は多数派だ少数派だのと一喜一憂するのが如何に陳腐なことか、世界のいろんな場所でいろんなことに驚くうちに身を持って学んだ。だからわたしは常識という言葉が葵のご紋のごとく使われるのにはちょっとばかり敏感である。「常識」というのはそれ自体、何の権威も持たない。「ある限られた地域に於ける多数決の結果」に過ぎないからだ。
とはいえ、それでもなお、いまだに多数決には脅かされ続けている自分がいる。はなから多数決の結果が気にならないような人間には、わたしは一生なれそうもない。
けれど、多数決に弱い自分を知っているだけでも、わたしは強いと思う。自分本来の弱さに目をつぶらず、多数決に弱い自分を直視するからこそ、多数決のからくり・あやかしを意識的に見破ろうとするのであり、多数決を超えて自分なりの判断を下せるのだから。