巻き舌の奇跡



 今日は昔話をしましょう。それはかれこれ三むかし前のこと、週に一度、ロシア語をならっていました。


 まだ習いたてのある日、先生が「来週までに巻き舌ができるようなってきなさい」とおっしゃいました。

 「えー、巻き舌って、練習したからってできるようになるものなのー??」 と、クラス内は騒然。その時点で巻き舌ができる人はほとんどいませんでした。

 でも先生曰く、「いや、できる。練習すれば、誰でも必ず一週間以内にできるようになります。いままでわたしの生徒で巻き舌が一週間でできなかった者は一人もいなかった。逆に言えば、一週間でできるようにならないのは、努力が足りないということ。そんな生徒は、このクラスにはいりません! 必ず来週までに巻き舌をマスターしてらっしゃい」。・・・とっても厳しい先生だったんです。

 でもそこまで言われたら、頑張るしかない。破門されたくはないですからね。

 「ほんとに一週間でできるようになるのかなー? 個人差とかないのかなあ?」と一抹の不安を感じつつ、さっそく、授業を終えたその瞬間から、友達といっしょに「R音の巻き舌」の練習を開始しました。歩きながら「トゥルルル・・・」、電車の中でも口の中で「トゥルルル・・・」、帰宅して鏡の前で「トゥルルル・・・」。

 翌日も、朝起きてから夜寝るまで、ヒマさえあれば「トゥルルルルル・・・」とやっていました。誰かが「《サッポロ・ラーメンの大盛り》って言って練習するといいよ」と教えてくれたので、それもやった。とにかく電車の中でも、歩きながら、学校の授業中も(?)、とにかく四六時中、口の中で「サッポラーメンの大盛」と唱えました。起きている間はずっとやってた。

 とにかく必死でした。先生に「巻き舌ができないようなヤツは教室から出て行てけ」なんて言われて恥をかきたくなかったのと、それに好奇心も手伝って。試してみたかったんです。本当に一週間でできるようになるかのかどうか。今はピクリとも動かないこの舌が、本当に一週間以内に震えるようになるのだろうか。その奇跡を一刻も早く体験してみたくて、それでいつになく熱心に取り組みました。





 ・・・で、一週間後、できるようになったかって・・・?






 それがね、ならなかったんです。

 でも、毎日「全然できるようにならないね」ってぼやき合っていた友達は、次の授業の前日くらいに突然、舌が回るようになりました。

 取り残されたわたしはもう、焦りまくり!! わたしもなんとかして明日までに、と思い、それまで以上に熱を入れて頑張りましたがダメでした。わたしの舌はピクリともしなかった。



 それでも授業には行きました。「こんなに頑張ったのに、できるようにならなかったじゃないか!」と先生に抗議したかったんです。努力が足りないなんて、言わせない。精一杯努力したことだけには自信があったから、わたしには抗議する権利があると思いました。



 でも実際、授業で先生の怖い顔をみたら、とてもそんな抗議はできなかった・・・。

 授業では順番にひとりづつ、「トゥルルルルル・・・」と言わせられました。できない場合はなんどか言ってみて、一度でも舌が震えればOK。先生は小さく頷きながら、次々と生徒に言わせていきました。程度の差はありましたが、みんな少しは舌が動くようになっていました。一週間前は全然できなかったのに・・・。



 わたしはといえば、自分の番を待つ間、凍りついていました。

 「なによ、『一週間で必ずできる』なんてヘンな気を持たせて!!」という先生に対する憤りは、ほかのみんなは出来るらしいと知った途端、恐怖に変わりました。怒りでほかほかしていた体温が一気に下がり、自分の体がミシミシと音を立てて凍りついていくのがよく分かった。わたしが一人でいくら「頑張ったのにできなかった」と言っても、信じてもらえそうもない・・・。体がこわばるような恐怖と、そして言いようのない深い孤独をおぼえました。



 ついにわたしの番。先生の前でだけ言えるなんていう奇跡は起こりませんでした。先生は何もいわず、無表情にわたしの番をスルーしました。

 先生はわたしを教室からほっぽり出しませんでした。叱りもしなかった。わたしは心の底からホッとし、同時に心の底からがっかりしました。もし「練習しなかったのか」と責められたら、「いいえ、すごく頑張りました!」と食ってかかれたのに、わたしには弁明のチャンスも与えられなかった。先生は静かに心の奥で、「あれだけ言ったのに、それでも練習してこないヤツがいる」と呆れたかもしれない。



 それでもわたしは巻き舌の練習を続けました。というか、もうクセになっていたんです。四六時中、「トゥルルルルル・・・」って言っているのが。

 それに、意地になってもいた。「来週こそ、絶対先生に抗議してやる。一週間どころか、二週間練習しても、できないじゃないか」って。人には個人差というものがあって、みんなができることができない人も、たまにはいるんだ、ってことを、先生に教えてやりたかった。

 最初の一週間は、できるようになるための練習でしたが、次の一週間は、「いくら頑張ってもできない」と証明するための練習でした。



 ところが。数日したある日のこと。突然、舌がわずかに震える感覚を覚え、なんどか繰り返すうちに、見事な巻き舌になりました。

 不思議でした。本当に、不思議な感覚でした。自分の身に起こった奇跡をしばらく信じることができませんでした。不思議で不思議で、夢中になって練習し続けました。

 一度できるようになると、練習すれば練習するほどうまくなる。2日も経つ頃には「ルルルルルルルルルルルル~~~~~~~」と、息が続く限り、何十秒でも続けて言っていられるようになりました。


 わたしは、自分の身に起こった奇跡がいとおしくてたまらなかったけれど、同時に非常に悔しくもあった。だって結局、わたしも「できちゃった」んですから。一週間ではなかったけれど、二週間でできてしまった。結局わたしは、「いくら頑張ってもできない」証明ができなかったわけで・・・。それが、悔しくて悔しくてたまらなかったです。



 そんなわけで巻き舌はなんとかクリアしました。でもけっきょくロシア語は長続きしませんでした。遠い教室まで1年半頑張って通ったけれど、中級進級試験の成績が悪く、先生に再度初級の受講を勧められたのにガックリしてやめてしまったのです。みんなが中級に行くのに、自分だけまた初級をやり直すなんていやだった。でも一緒に中級に進んでついていかれる自信もなかった。それで辞めました。

 でもね、巻き舌だって人の二倍かかったのだから、何もかも全部、人の倍かかると覚悟して初級をやり直せばよかったのに、と今にして思います。

 当時まだ十代だったわたしにとって一年という時間はとても長く、初級のやり直しはとても許容できなかった。でも人生も半ばすぎてみると、一年という時間は「たった一年」と感じる。



 とはいえ期間に関係なく、人より遅れをとることの辛さ、認め難さは今も同じ。おととしアラビア語を習っていた時も、落第が死ぬほど怖かった。



 長く生きてても、進歩がないですねえ・・・。




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