今自分にできること
珍しく英語多読のオフ会へ行ってきました。たまたま今回は同年代の女性が多く、ご活躍中の様子に刺激を受けました。だいたい英語多読をやってる人って、人生に前向きな方が多い。輝いている人が多い。多読のオフ会へ行くと、必ず刺激がもらえます。
しかし、刺激を受けると落ち込むのがわたしの常であります。人に対して「すごいなあー、いいなあー」と思うと、「自分も見習おう」と思う。自分もそうなりたいと思う。でもなれない。で、落ち込むのであります。
「こんなんでいいんだろうか、自分は」といつも思う。
今回はさらに、そこで話題になったTiger & Bunnyというアニメ映画の予告編をyou tubeで早速見ていたら、
という言葉が出てきて、ドキッとしてしまった。
「やりたいこと」はやってる、と思う。今、トルコ語が面白くて面白くてたまらない。トルコ語が「今わたしのやりたいこと」。それは間違いないと思う。
でもトルコ語が、「自分にできること」かっていうと・・・???
「自分にできること」という言葉は、わたしには「自分がすべきこと」に聞こえる。
で、じゃあトルコ語が「自分のすべきこと」かっていうと・・・。笑。
「トルコ語覚えてどうするわけ?」と人に聞かれたら、もうわたしは答えられない。さあー、どうするんでしょうねえー?
昨日、娘がしきりに口からヘンな音を出しているので、「何やってるの?」と尋ねたら、「ボイス・パーカッションの練習」というので笑ってしまった。
「それ、できるようになったとして、何かいいことあるわけ?」と訊いたら叱られた。
「いいじゃん! どうしてそういうこと言うの?! ほっといてよ!」
ごめん、と謝った。
そうよね、わたしのトルコ語に比べたら、ボイス・パーカッションのほうが、ずっと有意義よね。パトカーの口真似して、犯罪行為を止めたりとかできるし。トルコ語じゃあ、パーティの余興にもなりゃしない。
そりゃあ、トルコ語の先生とか、通訳とかガイドとかになるなら話は別ですが。でもスペイン語で通訳案内士取って分かったの。わたし、職業ガイドになる気なんて、全然ないんだ、って。
ボランティアなら話は別ですよ。もしグアテマラの先生が誰か日本に来て、案内して欲しいって言われたら、喜んで引き受ける。到らない点は多いだろうけど、そこはゴメンってことで。
でも仕事としてガイド・・・? お金をもらう? ・・・そんな度胸ないよ。
・・・というわけで、まだ登録にも行っていないのです。だって万が一、仕事来ちゃったら困るもん。スペイン語なんてここ2ヶ月喋ってないのに。
じゃあなぜわざわざそんな資格を取ったかというと。
それは、大義名分が欲しかったからです。着物を着る大義名分、外国語を学ぶ大義名分が欲しかったんだと思う。着物を仕事着に、外国語をビジネスの道具にすれば、「何でわざわざ着物なんて着るわけ?」「なぜわざわざ外国語なんて学ぶわけ?」そういう問いを、一気に纏めて片付けられると思った。着物を着てスペイン語で案内するガイドになりさえすれば。
そして。
資格さえとりさえすれば、自動的に自信もついてくると思った。要は、変われるんじゃないかと思ったんです。こんなすごい資格を取ったら、一夜にしてシンデレラになれるんじゃないかと夢見ていた。もしそこまで行けたら、すごい実力が身につくんじゃないか、って。
だから頑張りました。キラキラ光る星をめざし、頑張って取りに行った。
でも。
ダイヤモンドだと思って掴んでみたら、それはただの石ころでした、という展開。手に入れた途端、星は輝きを失ってしまった。
資格なんか取ったって、スペイン語もろくに喋れず、日本のこともろくに知らず、着付けもヘタで、ガッツもない、体力もない自分は変わらない。そういうものが全て揃っていて、ただ唯一資格だけがないために営業できない人がいたとしたら、その人にとっては、この資格はダイヤモンドかもしれない。でも、資格だけポロンと持っていたって、それはその辺の石ころと変わらない。
今回に限らず、いつもそう。いつも「こんな級がとれたら、すごい実力が身につくんじゃないか」と憧れて憧れて、一生懸命頑張って、逃げたいところを逃げないで、試験を受けに行く。だから受かったときはもう有頂天。たしかに一瞬、お姫様気分を味わう。
でも、さあどうだ、これでさぞかし実力という名の豪華なドレスを身にまとえただろうと思って自分の体を見下ろすと、そんなドレス、どこにもないの。いつものボロを着た自分でしかない。
どうしてそういうことになるんだろう? いつもいつも考える。
昨日そう酒井先生が言われたとき、「でも、資格を持っていることで、自信にはなるのでは?」と言ってみたけれど、実際のところ、酒井先生のおっしゃるとおりだと思う。他人の評価は、おもちゃの勲章でしかない。キラキラ輝いて見えるのは、遠くから仰ぎ見るときだけ。手に入れた途端、陳腐化してしまう。
トルコ語は楽しい。ほんとに楽しい。でも楽しすぎて後ろめたい。
何か別にやらなくちゃならないことがあって、そこから逃げて遊んでいるだけなのでは、と思えてならない。
でも人間、息抜きも必要よね。12月、1月は仕事を頑張ったから、しばらく遊んでてもいいかな?
――そう自分に言い訳してみる。
ブログに記録残してるもん、少しは何かの役に立ってるかも。
――そう言い訳してみる。
でもやっぱり、「こんなことしてていいのかなあ?」って思う。今自分にできることって、本当は何なのだろう? そしてそれは、同時に「やりたい」とも思えることなんだろうか。
ああ、「やりたいこと」と「できること」、それが合致している人が、本当に羨ましい。
多読のオフ会って楽しいんだけど、こういう落ち込みが必ずオマケについてくるのよね・・・。だから一年に一度参加するくらいがちょうどいいんだな、と思う。
しかし、刺激を受けると落ち込むのがわたしの常であります。人に対して「すごいなあー、いいなあー」と思うと、「自分も見習おう」と思う。自分もそうなりたいと思う。でもなれない。で、落ち込むのであります。
「こんなんでいいんだろうか、自分は」といつも思う。
今回はさらに、そこで話題になったTiger & Bunnyというアニメ映画の予告編をyou tubeで早速見ていたら、
今やりたいことやってる? 自分にできることやってる?
という言葉が出てきて、ドキッとしてしまった。
「やりたいこと」はやってる、と思う。今、トルコ語が面白くて面白くてたまらない。トルコ語が「今わたしのやりたいこと」。それは間違いないと思う。
でもトルコ語が、「自分にできること」かっていうと・・・???
「自分にできること」という言葉は、わたしには「自分がすべきこと」に聞こえる。
で、じゃあトルコ語が「自分のすべきこと」かっていうと・・・。笑。
「トルコ語覚えてどうするわけ?」と人に聞かれたら、もうわたしは答えられない。さあー、どうするんでしょうねえー?
昨日、娘がしきりに口からヘンな音を出しているので、「何やってるの?」と尋ねたら、「ボイス・パーカッションの練習」というので笑ってしまった。
「それ、できるようになったとして、何かいいことあるわけ?」と訊いたら叱られた。
「いいじゃん! どうしてそういうこと言うの?! ほっといてよ!」
ごめん、と謝った。
そうよね、わたしのトルコ語に比べたら、ボイス・パーカッションのほうが、ずっと有意義よね。パトカーの口真似して、犯罪行為を止めたりとかできるし。トルコ語じゃあ、パーティの余興にもなりゃしない。
そりゃあ、トルコ語の先生とか、通訳とかガイドとかになるなら話は別ですが。でもスペイン語で通訳案内士取って分かったの。わたし、職業ガイドになる気なんて、全然ないんだ、って。
ボランティアなら話は別ですよ。もしグアテマラの先生が誰か日本に来て、案内して欲しいって言われたら、喜んで引き受ける。到らない点は多いだろうけど、そこはゴメンってことで。
でも仕事としてガイド・・・? お金をもらう? ・・・そんな度胸ないよ。
・・・というわけで、まだ登録にも行っていないのです。だって万が一、仕事来ちゃったら困るもん。スペイン語なんてここ2ヶ月喋ってないのに。
じゃあなぜわざわざそんな資格を取ったかというと。
それは、大義名分が欲しかったからです。着物を着る大義名分、外国語を学ぶ大義名分が欲しかったんだと思う。着物を仕事着に、外国語をビジネスの道具にすれば、「何でわざわざ着物なんて着るわけ?」「なぜわざわざ外国語なんて学ぶわけ?」そういう問いを、一気に纏めて片付けられると思った。着物を着てスペイン語で案内するガイドになりさえすれば。
そして。
資格さえとりさえすれば、自動的に自信もついてくると思った。要は、変われるんじゃないかと思ったんです。こんなすごい資格を取ったら、一夜にしてシンデレラになれるんじゃないかと夢見ていた。もしそこまで行けたら、すごい実力が身につくんじゃないか、って。
だから頑張りました。キラキラ光る星をめざし、頑張って取りに行った。
でも。
ダイヤモンドだと思って掴んでみたら、それはただの石ころでした、という展開。手に入れた途端、星は輝きを失ってしまった。
資格なんか取ったって、スペイン語もろくに喋れず、日本のこともろくに知らず、着付けもヘタで、ガッツもない、体力もない自分は変わらない。そういうものが全て揃っていて、ただ唯一資格だけがないために営業できない人がいたとしたら、その人にとっては、この資格はダイヤモンドかもしれない。でも、資格だけポロンと持っていたって、それはその辺の石ころと変わらない。
今回に限らず、いつもそう。いつも「こんな級がとれたら、すごい実力が身につくんじゃないか」と憧れて憧れて、一生懸命頑張って、逃げたいところを逃げないで、試験を受けに行く。だから受かったときはもう有頂天。たしかに一瞬、お姫様気分を味わう。
でも、さあどうだ、これでさぞかし実力という名の豪華なドレスを身にまとえただろうと思って自分の体を見下ろすと、そんなドレス、どこにもないの。いつものボロを着た自分でしかない。
どうしてそういうことになるんだろう? いつもいつも考える。
英検だ、TOEICだって、みんな騒ぐけど、結局他人の評価なんか、何にもならない
昨日そう酒井先生が言われたとき、「でも、資格を持っていることで、自信にはなるのでは?」と言ってみたけれど、実際のところ、酒井先生のおっしゃるとおりだと思う。他人の評価は、おもちゃの勲章でしかない。キラキラ輝いて見えるのは、遠くから仰ぎ見るときだけ。手に入れた途端、陳腐化してしまう。
トルコ語は楽しい。ほんとに楽しい。でも楽しすぎて後ろめたい。
何か別にやらなくちゃならないことがあって、そこから逃げて遊んでいるだけなのでは、と思えてならない。
でも人間、息抜きも必要よね。12月、1月は仕事を頑張ったから、しばらく遊んでてもいいかな?
――そう自分に言い訳してみる。
ブログに記録残してるもん、少しは何かの役に立ってるかも。
――そう言い訳してみる。
でもやっぱり、「こんなことしてていいのかなあ?」って思う。今自分にできることって、本当は何なのだろう? そしてそれは、同時に「やりたい」とも思えることなんだろうか。
ああ、「やりたいこと」と「できること」、それが合致している人が、本当に羨ましい。
多読のオフ会って楽しいんだけど、こういう落ち込みが必ずオマケについてくるのよね・・・。だから一年に一度参加するくらいがちょうどいいんだな、と思う。