思い出の正体

 夏です。梅雨です。ムシムシします。わたしはなぜか年末より、この時期に大掃除を始めることが多い。ムシムシするからクサクサし、身にまとわりつくあれやこれやを脱ぎ捨てたくなるのかもしれない。

 昨年もちょうどこの時期、1ヶ月かけて大掃除をしましたが、そのときどうしても整理できなかったものがあります。ノートです。去年はただ戸棚に突っ込んで終わりましたが、今年は思い切って手をつけることにしました。



 しかしノートって、わたしにとっては捨てられないものナンバーワン。どれが必要で、どれが必要でないか、判断できない。何を基準にしたらいいのか分からない。


 ところが先日、友達に相談したら、すごいヒントをくれました。曰く、
ノートを処分するときは、「今のわたしの知識レベルはこんな過去のノートの内容をはるかに凌駕している。よってこれはもう必要ない」と思うことにしている
のですと!

 ぬおお、カッコイイ!!

 しかし、カッコイイ以前に、わたしこのセリフを聞いて思いました。

 そうか、彼女にとってノートとは知識なのか、と。

 そして、わたしにとってはノートとは思い出なのだ、と気づいた。


 つまり、知識としての重要性に関係なく、ノートは思い出だから捨てがたいのですね。

 大学時代の講義ノートなんて、絶対見ないって分かっているのに捨てられない。今は亡きあの教授の講義、などと思うと・・・。

 でもそう言ったら彼女、
思い出なんて、頭の中で覚えている分だけで充分じゃない?

 ・・・けだし名言。まったくその通りだと思いました。



大学時代のノート


 大学時代の講義で今でも一番よく覚えているのはロシア文化史の一節です。

1380年、Kulikovo Poleの戦いはステップの騎士の戦いらしい英雄的なものとなりました。タタールの勇士Temir Murzaがロシアの将兵に向かって、「我と思わん者は一騎打ちに応ぜよ」と呼びかけると、修道士Peresvetが挑戦を受け、タタールの勇士にまっしぐらに向かっていきました。双方は差し違えて共に討ち死にし、戦いの火蓋が切って落とされました。この戦いはロシア側の勝利に終わり、死屍累々たる戦場で最後に点呼が行なわれたとき、多数の勇士の声は返ってこなかったのでございまする。

 わたしにとって重要なのは、時のモスクワ大公ドミートリー・ドンスコイ率いるこのクリコヴォの戦いに関する知識ではない。ちょっとググればこの程度のことはすぐ調べがつくし、図書館へ行けば、講義ノートと大して変わらない内容の先生の著書が見つかるでしょう。

 大事なのは、この講義を聴きながら友人と「見てきたのかよ!」とつっこんだこと。「死屍累々たる戦場で~」というくだりがいたく気に入り、何かにつけて引用していたこと。

 これがわたしの「思い出」の正体。

 たったそれだけ。

 なーんだ、ノートなんてとっておく必要ないんだ、と分かりました。



アラビア語関係のプリント


 いろんな言語をちょっとずつかじっているとノートやプリントの量がハンパなく、特にアラビア語は収拾がつかないので、これまでは自動的にただ戸棚に突っ込んでました。

 出してみると、まああるわ、あるわ・・・。

 特に学校関係。

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 卒業生クラスで使った練習プリント、アラブ文化講座のレジュメ、演劇部や人形劇部のシナリオ、アラブ料理のレシピ、スピーチの草稿、作文などなど・・・。

 これらも「知識」というよりは捨てられない「思い出」。まっさらのテキストなら捨てられるのに、自分の手で書き込みがあると捨てられない。逆に作文は、自分が書いただけなら捨てられるのに、先生の赤ペンが入っていると、途端に「思い出」に昇格する。

 どうやら、自分と他者のコラボに弱いようです。何かそこに対話みたいなものが生まれちゃうからかな?


 しかしその「思い出」は甘美なばかりではなく、むしろ黒歴史だったりする。

 まず第一に、これだけやってこの程度と思うと、がっかりを通り越して、笑いがこみ上げてくる。

 細かに手でシャクルを振ったテキスト、問題プリントにはビッシリ答えが書き込んである。とにかく自分でもびっくりするほどよく書いている。よく頑張ったなあ、と自分で思います。

 それで今この程度。どーう考えてもおかしいでしょう。

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 しかし他方で、どれもやったのは一度こっきりという事実が・・・。いつか復習しよう、しようと思いつつ、復習しないままになっている。「ああ、結局復習しなかったのね」と思うと、いやーな気分になる。そういう意味でも黒歴史。

 だったら今からでも復習しろよ、と思いますが、とても読む気が起こらない。だって文字小さいしぃ~。

 ・・・とか言ってるから上達しないんだね、うん、よーくわかったよ。


 
 先日、本田先生のノートを拝見して驚いたのは、そのシンプルな道具立てです。例文の量を見て、「え、意外と少なっ!」と思った。

 たぶん先生は、ご自分が覚えられる分量しか、ノートに書かないのでしょう。逆に、ノートに書いたことはすべて覚えるのだと思う。つまりご自分にとって大事か、大事でないかの線引きが明確にあるのでしょう。

 わたしは、何か聞いたらとりあえず書いておかないと不安。だから何でもかんでもメモる。でも量が多すぎるので収拾がつかず、けっきょくあとから見ない。それどころか、どこに行っちゃったかも分からなくなる。


 今、アラビア語を一からやり直していると、これまでやってきたものなんて全部捨てて、もう「たのしいアラビア語」だけでいいかな、なんて思ったりします。

 ・・・って、さすがにメインテキストまで捨てたりはしませんが。でもプリントとノートはとりあえず、3分の1くらいに減らしました。



マムからの手紙


 中学生のとき、ひと夏お世話になったアメリカのホストマザー(マム)が先月亡くなりました。老衰に近い往生でした。最後の一週間は、余命いくばくもないと悟った家族が親しい人を呼び集め、家族や友人に囲まれて苦しまずに息を引き取りました。

 わたしも亡くなる一週間前までメールを出し続け、数日前まで家族と電話で連絡を取り合っていました。アメリカまで駆けつけることはできませんでしたが、葬儀に花を贈ったので、悔いはありません。

 マムが亡くなった時、わたしにとっても、40年間続いた人生の一時代が終わった、と思いました。



 マムからの手紙やカードは、結婚するときだいぶ処分したつもりでしたが、戸棚を見たら、古いものもまだけっこう残してありました。

 でもマムはもういない。一緒に見て懐かしがることもない。

 すっかり変色した40年前の手紙を少し残し、あとは処分することに決めました。40年前、ホストファミリーに買ってもらった本も一緒に。


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 昨年、二人の娘が独立したわが家は、スペースや収納に困ることはありません。とっておこうと思えば、ノートや手紙類など、いくらでもとっておくスペースはある。

 でも過去の遺物が多すぎると、前に進めない。

 ほんと、友達が言うとおり。思い出なんて、頭の中で覚えている分だけで充分かもしれません。




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